昭和43年 3月25日 朝★ 佐田與一郎
(途中から?)ありがたいと私は思いました。それは皆さんのお話を聞いておるよりも、実際それの方がありがたかった。だんだんおかげを頂いて参りましてね、本気で神様に使うて頂くということのありがたさ。私はそう思います。神様に使うて頂いておるということが本当にありがたい。
これがね、生き生きとして神様の御用に使うて頂いてない時には、そんなにありがたいものは生まれてこないと思う。御用にお使い回しを頂いて、喜びが伴わないならもうその御用はもうある意味では死んでおる。
御用に使うて頂いてありがたい。しかも、もう5よりも10、10よりも20に使うてもろうておる。そのことがありがたいと分からせて頂けれるほどに、お互いの信心が生き生きとしておかなければならないということなんです。それが、まぁ、まがりなりにもできておるということが、じつは私はありがたかった。
だんだんお話を頂いております。まぁ、ああして各教会の幹部が集まっておられます。その方達が、もうせっかく1日をお金を使うたり、時間を使うたりして、このようにみえたのでございますから、やっとやはり合楽の教会におかげ頂いたらお土産持って帰らなならん。おか頂いて頂いて帰ってもらわなならんと思うて、その一人一人のうえのことをお願いさしてもらいよる。
そしたらね、長い大きなゴボウを頂くんですよ。やっぱり、皆さんがもうその教会もここのように、まだ若い教会はございません。もう何十年、若いところで30年ぐらいね、今度あたりで35年になるそうですが。もう50年も60年も、また70年も経った教会のこと、いわゆる信者の方達、幹部の方たちですから、長い間信修行ができとる。私は長いゴボウというのは、そういう風に下さったんだと思うんです。だから、さすがに皆さん長い修行ができられて、ありがたいことじゃなぁ。
それぞれ教会のまぁ重要な立場で、それぞれ御用頂いておられる。それをいよいよ教会の中心にもならしてもらおう、本当に生き生きした御用でも頂かして頂かなならない。教会がいよいよ、金光大神取次ぎの道がいよいよ輝きわたって、言うたら助かることのできる場としておかげ頂いていくために、まず完璧なところの自分たちが、もっと本当の信心に頂かなならんというところが、まぁそういう研修会の思い立ちの目的であったでしょう。
ですから私やはりなるほどやっぱ、長年の信心修行できとる方、なるほどありがたいなぁ。とこう思わして頂いたら、神様がそのゴボウを二つにぽろっと切ってくださった。見せてくださった。
ところが、どっこいその二つに切ったゴボウの中にですね。もういっぱいすがほげとる。どうですか巣のほげたゴボウっちゅうか、大根でも同じことですけれどね、もうそれは、皮つくところ少しでも使えましょうけれども、肝心要のところが使えないでしょうが。
ね、神様が生き生きとした御用にも使うてやろう。そして、生き生きとした徳もおかげも渡してやろうとおぼしまえしでも、ね、中がすがほげておったんではね。いかに長い修行長い苦労があっておっても、もう役には立たないということ。
これは、ここの信者も含めてですよね。そして、改めて昨日のいわば真の信心につながる真の修行。無限大に無尽蔵に頂けれるおかげにつながる。それを真の信心というのだと。その真の信心を頂くためには、どうしても真の信心をしなければいけないのだ。真の信心を頂きたいならば、間違いのない間違いなく方向を、その真の信心へ向け直したところの、真の修行が必要なのだというのが、昨日の御理解でしたですね。
そこで、お互いがこうして信心さして頂いておる修行がです。ね、果たして真の信心につながる修行あろうかということを、検討しなければはならないというようなことを、まぁいうなら検討してみる。ことをみて、こういう生き方にならなければならないというまぁ御理解を、昨日の朝頂いたわけでございます。ね。
言うなればです。例えば、信心修行がただ続いておる。信心が続いておるということだけではなくて。私はいつも絶えず、ね、昨日私最後の当番教会長からも、お話をしてくれということでございましたから、お話をさして頂いた中に、私が繰り返し申しましたんですけれども。
現在私の頂いておる信心を本当だと思っておる。ね、かといってもっと素晴らしい本当の信心があるなら、それを気づかして頂いたなら、もうすぐさまにでも、私はそのもっと素晴らしい本当の信心に切り替えていくだろう。そのためにはいよいよじ自分というものを肯定した信心であってはならない。と言うて否定ももちろんしてはならないけれども。
ね、自分の信心に確信をもっているということは、否定せないかん。かといって、もっと良い素晴らしい信心があればです、それにいつでも移っていけるところの体制を自己を肯定してない内容なんです。ね、これで済んだと思わん、いつもそういう姿勢でなからなければ、次の信心飛躍して行かない。ところがやっぱ何十年の信心をしとう人ばかりですからね。まぁ私どもの言ったような話の中には、もうやはりその殻を破るということは難しい。中にすがほげておっても自分じゃ気がつかない。
ね、昨日お参りをされた中に、この人はおかげを受けられたなぁと思う人が1人あった。それは私の御理解を聞いてくださって、本当に今日の御理解は先生、私じゃなからな分からんと思います。という人があった。ね、これは御理解を頂いて、そのご理解を吸収されたという意味でしょう。そう言うならいくらかおかげ頂いたと思うでしょう。
本当に生きた神というものをです。目の当たりに感じた。おかげを受けたという人が1人あったんです。私はそれを実感した。ある教会のご信者さんですが、お歳五十何歳、54歳とかって後から調べてもらいましたけれども。控えてございますか?立派な紳士でした。
ここにお取次ぎを願われるんです。そして、そのお初穂だけ奉られたんですよね。ですから私、ここのお初穂袋に包んで、えーお初穂ここに、ここにこうなさいました。それを私はそれをお届けさして頂いてから、全部ご信者さんに御神米を下げますから、御神米を下げようと思うた。
ところが神様から御神米はいらんと頂いた。だから、もういちいち御神米を袱紗に包んでちゃっと皆さん出されますからね。私はその袱紗を解いて入れようと思ったけど、いらんと言われたから。私は早速そのまままた包んでからここに返した。御神米を入れずに。それをちゃんとここで見ござった。
もうそのときです。まぁー言うなら、厳密に言うたら、顔色が変わったじゃろうと思うんです。あっ、恐れ入りましたと言われてから、ポケットから、この内ポケットからこのお初穂を出されました。ちゃんとこうして用意してきてあるんです。ね、用意してきてあるものがですよ。ちゃんとこん中にお初穂を入れて。しかも、これはあの普通の人よりもやっぱり倍ぐらいのお初穂が包んであった、中には。それをここにポケットの中に入れてあるんです。
それがわざわざここでですね。このお初穂に同じ名前を書いて、これを先にお届けされた。中はこれは空じゃった。ね、合楽の先生っちゃ、神様のごと人が言うが、どんくらいの先生じゃろうかと。
まぁ言うならば、私は試されたんだとこう思いますですね。ですから、一人ぐらい中に入ってなくだってですね、誰もどうも言いやしません。御神米を私がもし下げておったらですね、まぁその程度で大したことはない、と言うて帰られたに違いないです。
結局、私が御神米を(???)に入れずに、こうして私が入れずに包んでおるのをこっちは見てござるですもん。向こうで。他所の信者さん方はこうしとりませんからね。こうやって頭上げてるんですよ。そして、先生のお初穂包まれるその手際をちゃんと見よる。
ところが、御初穂御神米を入れずにまた包んで戻してあるもんですから、瞬間、途端に恐れ入りましたと言って、ここのポケットから出された。ちゃんと用意はしてきてある。私はこの人はおかげを受けたと思いましたです。なぜって?生きた神様をそこにまのあたりに見たり、感じたりしたんですものね。
神様を試したということは、まぁ大それたことでございますけれどもです。私この人は、この人ひとりはそうした生きた神様に触れて帰ったなぁということを感じました。いうならばです、長年の信心、御結界のお取次ぎの働きというのがどういうものかということはもう頭でちゃん分かっとる。
ね、三代金光様のまだお若い頃に、大阪のある有名な芸子さんが、そのご自分の旦那さんと一緒に御本部参拝をした。当時の10円といや、もういのししと言うて、いわば値打ちのあるお金でございますよね。その旦那さんが、その5円ばっかり包んどけと言う。ちょうどみかげ橋の上である。みかげ橋というのがありましょう。みかげ橋の上でそう言われる。
そこでその芸子さんが熱心に信心されますから、あんたそげんなこと言わずにせっかくお参りしたのですけん、一人で5円ずつぐらい、だから10円を包んでください。5円でよかくさっち。そげんなこと言わずに10円包んでください。まぁそんならと言うて10円包んでお供えしたんです。
ところがですね、御神米が下がった。御神米の上に5円札が1枚乗っとった。おつりが来た。もう恐れ入ってしもうて、ね、本当に金光様の生きた御神徳というものに恐れ入ったというて、それからその旦那さんもご信心になったというお話があります。
ね、それによう似たお話ですよね。私はおかげ頂いた。この人はおかげ頂いた。そりゃもう神様に対してご無礼だけれどもです。ね、ここにお参りしてきて、やはり生きた神様を頂いたということはです。もう瞬間私は、ね、本当に生きた信心せないかんなぁと思ったことであろうと思うのです。
その方は、私はいつもその方を見てるんです。その人は膝も崩さずに、やっぱ熱心にお話を聞いておられました。おかげで途端にです、長いすのゴボウではあるけれども、すがほげとったものが何かこう、それはまぁ生え立ちのゴボウかもしれんけれどもですね。次のゴボウの種を蒔かなきゃならない。次の本当のこりゃ生きた信心さしてもらうなら、生きた修行さしてもらわないけんぞといったいったようなものを、感じられたのではなかろうかとまぁこう思うのです。
お互いの信心でもそうなんです。私どもの長い例えば、なら10ここで初めからのおかげ頂いた人は、18年なら18年間の間に長いゴボウのおかげを頂いておる。けれどもです。皆さんの御用頂かれるその中身がです。生き生きとして。御用にお使いまわしありがたいを感じれるような信心であったならば、ゴボウはまだ中身がいっぱい詰まってる。
ところができるだけ御用のほうから逃れたい。(?????)の先生がまた御用を言いつけどんしなさる。(????)。言うならば、そういうような気持ちでですね、御用から逃れたい逃れたいといったようなことで御用しておるのは、もうすでにあなたの修行の中身がすがほげておるということを悟らなければいけないと思うのです。
そして、新たな修行。そして、昨日朝頂いたようなです。新たな真の信心へ向かわしてもらうために、真の修行が本気でなされる。皆さんがここで一生懸命ご祈念をなさいますのを、まぁ私ここで今見ているわけでございます。本当に真剣にせっかくお参りをしてくるのであるから、本当に真剣そのもののです、わたくしはご祈念ができる、おかげをいただかなけりゃいけません。そこから私は生きた信心、ね、生きた御用ができる。
次にね、頂きましたことはわらび。もうわらびがこのくらいに開きかかっている。これが開いてしまったらどういうことになりますかね皆さん。もうこれが開いてしまったら、これはすだごろである。まぁ葉っぱで言うとシダである。
シダであるということは、いうなら不毛の地である。いくら種蒔いたっちゃ、もう芽は生えんということ。死んだとですから。どのような素晴らしいお徳を受けられるようなお話を頂いておってもです。もうそれこそ、ツゥーと抜くる。吸い込まない。
けど私本当にお話をさして頂きながらですね。まぁ私の話を頂きつけないからでもあろうけれどもです。もう本当に全然コンクリの上に見ずまくような人がいくらかおりました。中には、もうこうしとったら、(?????)ちゃる。(????)な方たちもいくらもありました。これはただの話じゃないぞ。と思われたに違いない。
もう本当に食べられる時使われる時がおかげ。わらびでもやはり、こう出たばっかりの柔らかいとこ。そんときじゃなければ値打ちはない。お互いの信心がです。だんだん何年経ちました。と言いよる間に本当の誤用もできんなりに、いわば葉が出てしまった。本当に神様に、喜んでもらえるような、生き生きとした喜びが伴うような御用もとうとうできんなりに、18年間しまえたという人達が私はありゃせんかと思うです。ね、生き生きとした御用もようせんなりに芽が出た。もう葉になってしもうた。もうすだごろである。
でも、私どもがおかげを頂かしてもろうて、神様の御用なら前には進んでも後ろにはひかん。いや本当に御用が頂きたい、御用が頂きたいと願う心。ね、そういう私は生き生きとした瑞々しい信心が、また瑞々しい信心修行がです。必要である。そして、私は絶えず自分のその心をです。
ね、コンクリのように固まってしまってはおらんかと、いうふうに検討して、ね、もうこのゴボウがすがほげとると感じたら。次に私は新しいゴボウの種を蒔かして頂くというような、新たな更な修行に取り組んでいかなければならんというふうに思うのです。
生きた神を信心しよう。天も地も昔から死んだことなしと仰せられる。ね、ただ金光様の信心をしておるから、生きた神様を信心しておる。ということじゃないのです。その証拠には、ね、天も地も昔から死んだことなしと仰るように、天地の躍動がこちらのおかげの上にも、心の上にも感じられない信心であったら、もうそれは生きた神を信心しようということにはなってこないのです。
生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。天地の躍動がこちらの心のうえにも、喜びの躍動になってくるような、通うてくるような信心目指して、本気で真の信心のおかげを受けられるための、真の修行をさして頂き、またそれを念願とせなならんと思います。どうぞ。